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◆海外投資と税金 |
「雑学3分間 金融」 太齊利幸 著 ■ブレトン・ウッズ体制 1944年7月、アメリカのニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで、45カ国参加により、第二次世界大戦後の国際通貨体制に関する会議が開かれました。 各国の保護貿易、競争的為替相場の切り下げなど、近隣窮乏化政策が第二次世界大戦の遠因になったとの反省から、国際貿易の自由化と経済成長、雇用の促進を目的として形成され、IMF(国際通貨基金)と国際復興開発銀行が発足しました。 この二つの国際金融機関を中心とした戦後のドル本位制のことを「ブレトン・ウッズ体制」といいます。 第二次世界大戦後、圧倒的経済力を誇っていたアメリカも、60年代には海外援助や輸入超過などで、国際収支が大幅な赤字を記録しました。 70年代に入ると、インフレも進み、赤字が膨らむアメリカ経済の先行き不安が一層懸念され 、ドルの信用が著しく低下します。 そのため、ドルから金への交換が急増して、アメリカの金の保有準備高が大きく減少して、交換要請に応えられなくなり、ニクソン大統領は1971年、金とドルとの交換を停止しました。 これが有名な「ニクソンショック」です。 これにより固定相場制が崩壊し、ブレトンウッズ体制は終わったのです。 ■スミソニアン体制 世界経済を支えたブレトンウッズ体制崩壊を受けて発足したのが「スミソニアン体制」です。 1971年12月、ワシントンのスミソニアン博物館で10カ国蔵相・中央銀行総裁会議を開き、各国間の為替相場を再調整しました。 アメリカが大幅な赤字に陥っていたため、日本円や西ドイツのマルクなどを切り上げ、ドルを切り下げました。 ちなみに、1ドル=360円のレートが308円と円高になりましたが、ドルと金の交換が停止されたままで、アメリカの貿易赤字が改善しないこともあって、イギリスが変動相場制に移行し、その他主要先進国も追随したため、スミソニアン体制は2年と持たず崩壊してしまいました。 ■IMF(国際通貨基金)の第二次協定改正 スミソニアン体制が崩壊し、主要先進国は固定相場制から変動相場制に移行しました。 そして、1976年1月、ジャマイカのキングストンでIMF(国際通貨基金)の暫定委員会が開かれ、変動相場制の正式承認を含む、IMFの第二次協定改正が決定し、金貨の廃貨が決まりました。 この制度が1978年4月に発効の「キングストン合意」です。 1977年にIMF理事会で、中央銀行の為替政策のガイドラインが決められました。 @加盟国は不公正な競走上の優位を得るために為替相場を操作しない A輸出を伸ばすために意図的に為替相場を操作してはいけない B介入は短期的に乱高下し秩序が保てないときにのみ認められる 以上が、原則として定められました。 ■プラザ合意 1978年4月〜10月の半年間のドルの下落(1ドル=230円→175円)に対しカーター大統領は、 @日本、西ドイツ、スイスのスワップ枠拡大等による為替相場への協調介入の強化 A300億ドルの介入資金調達 B公定歩合の引き上げ C預金準備率の引き上げ の四つからなるドル防衛総合対策を発表しました。 すると、11月1日には、1日で10円以上もドル高円安になり、その後もその流れは続きました。 1985年9月、ニューヨークのプラザホテルで米・英・仏・西独参加の先進五カ国蔵相・中央銀行総裁会議、いわゆるG5が行われました。 この会議で、ドル高是正のための政策協調に合意、これが有名な「プラザ合意」です。 この会議は秘密裏に行われたいたため、マーケットではまさに寝耳に水で、翌日は ドル売りが殺到し、1ドル=240円台が、1日で10円も円高・ドル安になりました。 その2年後の1987年2月には、1ドル=150円台にまで急速に円高ドル安が進み、これがバブルの引き金になったといわれています。 |
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